零れ落ちた余情を掬いあげるのはきっと容易かった。 
 枯渇した砂原のように凪いだ感情は突如として氾濫した川の如くうねり波立ち、衝動という名の苛立ちに背を押されるようにしてブラッドは手を伸ばす。向けられる盲目の眼差しは空々しくも美しいが、こみ上げるのはざらついた怖気だけで吐き気がした。
 好きだと、そうエリオットが臆面もなく口にする言葉はどこまでも真意でありながら、まるで重みを感じさせずうすっぺらい。煩わしいほどに誠実である癖にこの上なく不実だ。
 ガチリとぶつかった歯が鳴った。勢い任せに重ねた唇は思ったより冷たく、繋がった唾液が糸をひく。
 エリオットには好きか嫌いかの二つしかしかないのよと、にこりともせずにそう言ったのは、時計を持たない余所者と呼ばる少女だった。差し出された数多の手の中からエリオットを選んだアリスは、紅茶で満たされた白磁のカップを胸の前に抱えて、部屋の隅に吹き溜まった闇を数えていた。私に言う好きもあなたに言う好きも結局のところ同じ。吐き出された吐息が吹き溜まる。私、あなたを殺してやりたいわ、ブラッド。そうして静かに告げられた殺意を受け止めてブラッドは笑った。
 自分を通して別の誰かに焦がれていた少女は、いつの間にか呪うように自分を見るようになった。甘さとは縁遠い攻撃性を孕んだ眼差しで、睨むように彼女はブラッドを見る。堪らなく愉快だった。この世界に絡め取られてしまった彼女が。見当違いな苛立ちを自分に向ける以外の抗い方を知らぬ少女が。下らぬプライドに阻まれて自分の男に縋ることもできない女が。ブラッドには堪らなく愉快だった。愚かな彼女とその恋人である男のことを、子供が昆虫の翅を毟りとるように好ましく思っていた。
 確かにそう思っていた筈だった。かつては。今は、少し違う。
「ブラッド?」
 鼻につく血と硝煙の匂い。いかほどに真っ赤な終わりをぶちまけてきたのか、傷んだ毛先から滴る赤は誰のものとも知れず、汚泥のように広がってエリオットの衣服やカーペットを汚す。ぽたりと垂れたそれが、ブラッドの執務机の上に積まれた書類に赤い染みを作る。
「気色悪い」
「それは俺の台詞だと……思うんだけどよ」
 低く吐き捨てたその言葉に返るのは戸惑いのせいか歯切れの悪い曖昧な反論。唾液で濡れててかてかと光る唇を手袋をはめた指先で拭って、ブラッドは舌打ちした。気色悪い。それは嘘偽りのない本心だった。不愉快だ。何故自分がこんなに波立っているのかが理解できない。無理やりに重ねた唇よりもそれが何より気色悪い。
「アリスが好きか?エリオット」
 投げやりに問えばエリオットは一瞬きょとんとして、それから何を今更といわんばかりに笑顔で頷く。長い耳を揺らして、無邪気とも言える笑みを浮かべて男は笑う。うんざりとブラッドは息を吐いた。いい年をした男のする顔じゃないなと指摘しても、エリオットはそうか?と首を傾げるだけだ。
「でも俺、ブラッドのことも大好きだぜ」
「それはもう、不本意なことこの上ないが、うんざりするほど知っている」 
 他意もなくそう言って満足そうに笑うエリオットの言葉にブラッドはもういいと手を振った。さっさとアリスに会いに行けと退出を諭せば、エリオットは不思議そうにしながらも大人しく部屋を出て行く。結局彼は、最後までブラッドの行動を何一つ非難することもなければ、追及することもしなかった。
「エリオット」
 扉の向こうに消えた男の名前をブラッドは呼ぶ。
 赤く擦れたエリオットの唇を見上げて、アリスは一体どんな顔をするのか。ブラッドはエリオットから移った血で赤く汚れた自分の手を眺めた。白に滲んだ赤は、既に乾いて変色して茶色くなっている。
 あのお嬢さんも気の毒に。彼女はきっと、何一つ追及することのなく笑顔でエリオットを迎え入れるだろう。苛烈な女の瞳をひた隠しにして、素直になれない甘い恋人の顔をするのだろう。
 思わず口元に浮かべた嘲笑は、誰に向けたものなのかブラッドにも分からない。
「私はお前ほど薄情な男を他に知らない」


あの日さえすでにモノクロ