やさしいおまえは泣くだろう







目を背けていれば、どうにでもなると思ってるの?
そんな問いかけを込めた微笑に、自分は何も返さずただ静かに紅茶を楽しんでいた。否、紅茶に逃げていたという方が正しいのだろうか。放っておけば飽きて何処かへ行くだろう。というか行ってくれ。そう思って聞き流していた。
が、どうやら今日の相手は少しばかり機嫌がお気に召さない様子で。自分のそんな姿勢に抵抗したくなったのか、諦めるという選択肢を消し去ったようだ。知らぬ間に近づいていた距離にハッ、とした瞬間には既に自分の椅子の背後に気配を感じていた。
マフィアのボスともあろうものが、情けない。今ので間違いなく死んでいるではないか。チッと舌打ちしてみせれば、それもお気に召さなかったのか後ろから微かにくすりと笑みを漏らす声が聞こえてきた。
するりと首に回った腕が自分にはギロチンのように見えて、思わず凝視してしまう。慣れた手付きでスカーフを解く様に、好きにやらせている自分に、同じくらい絶望した。

(何故お前はこういうときだけ来ないんだ。)

今この空間に存在しない兎は何処か遠くの場で人を殺めているに違いない。自分の事を犬と称しているくらいなのだから、主人の危機には駆けつけるものじゃないのか。
首筋に落とされたキスにぞわりと毛が逆立つが、固定されて銃さえも取れない。これは世に言う絶体絶命じゃないのかと冗談抜きで思う。それもこれもあの馬鹿兎が此処に来ないのが悪い。全て悪い。自分がこうして悪漢に襲われているのも、全ては奴に問題がある。
そもそも他の人間に触れさせたくないと言ったのは自分ではなかったか。何故此処に居ない、何故来ない。役立たずにも程があるぞ馬鹿兎。最近は大したこともない、と門番達に休暇を出したのが間違いだった。こんなにも簡単に進入させてしまえるなんて、セキュリティの見直しが必要だ。
それにしても気持ちが悪い。馴染みのない舌の感触も、無造作に髪を掴むその腕も、綺麗に切り落としてやりたいものだ。
自分の部下とは違う触れ方に、吐気がする。全身が、自分の世界が、この男の全てを否定しているのが分かる。

「でも、離せって言わないんだ。」

まるで何もかもを知っているかのような目で、男は自分と瞳をあわせた。逸らさせないように、腕に縫い付けるかのような力で顔を固定される。痛みに眉を寄せれば満足げに微笑んでいた。
それから、机に乗り上げられた後のことはよく覚えていない。意識を遮断して、そこの記憶ごと脳内で削除したからだ。

目を開ければ、足元に散らばった書類たちが目に入った。男の姿はとうにない。だから目を開けたのだ、当たり前である。
気だるげに髪をかきあげれば、あの男の残り香らしきものが鼻を掠めた。気持ちが悪い、直ぐにシャワーを浴びなければ。即刻結論が出て、これまた気だるげな身体を引き摺り、適当にまとって浴場へと足を進めた。どうやらエリオットはまだ帰ってきていないらしい。もう一度だけ「馬鹿兎」と罵倒を放ち、自分は部屋を後にした。

(・・・・・・馬鹿は、私か。)

これが一度の行為でないと言えば、自分の犬はどんな顔をするだろうか。
重ねるようにはしてみたが、結局残る痕も、残る匂いも、残る感覚も、残る記憶も、全てはあの赤い悪魔のものに違いなかった。噛み砕かれた爪が、存在を主張するようにじくりと痛んだ。