細い手首に口づけを落としてグレイは祈る様にその手を握った。武器を扱うことで自ずと骨張り皮膚の固くなった自分の手は、枯れ枝のように痩せたその手首を握りしめるには随分と余る。青白い肌に浮き上がった青い線の一つに爪を立てれば、圧迫され、へこみ、色味を増すそれに、この人も基本的な作りは自分と変わらないのだとグレイはそんなことを思った。思考は他人事のように巡る。絡めた指先が、グレイの指先に答えることはない。
「ナイトメア様」
グレイは平坦に主の名を呼んだ。何の感情も込めず、特に意味を持たせた呼びかけではなかったそれは、あっという間に静寂という名の海の中に溶けて消えてゆく。カーテンの隙間から入り込む細く長い月明かりは四肢を投げ出して力無く横たわる人影を青白く彩って、ただでさえ生気の乏しいその横顔から生き物としてあるべき熱を奪い去っていくようだった。
「起きないんですか」
触れた肌は見た目通り、氷のように冷たかった。静寂をすり抜けるようにしてグレイが口にした言葉にナイトメアは答えない。頬にかかる髪を除けてやっても身動きの一つもせず、グレイはそこでようやくこの人は本当に生きているのだろうかと不思議に思った。心配したのではない。ただ漠然と、この男はこの世界に生きているのだろうかと、ただ、不思議に思っただけだった。
「起きないんですか、ナイトメア様」
自分が彼を見下ろす影が、彼の上に色濃く落ちていた。起きないのですかと尋ねながらも、グレイは起きてくれるなと願っている自分に気づいていた。この男がこのまま静寂の海の中に溶けて消えて、青白い月に攫われてしまうことを静かに祈っていた。片手でナイトメアの手首を握りしめたまま、グレイは空いていたもう片方の手を伸ばしてナイトメアの頬に触れる。そのまま血色は悪いが滑らかな肌を手のひらで辿って、とくんと静かに脈打つ細い首の上で止めた。
小さく脈打つその音は、酷く小さかったが確かにこの男が生きていることを告げていた。少し力を込めるだけで、生き物としての機能はあっさりと死滅するだろう。グレイはその過程をよく知っている。
「ナイトメア様」
起きてくれるなと、そう祈った。脈打つ首筋に唇を落とせば、他に触れたどこよりもそこには温もりが流れていた。グレイは平坦な声で主を呼んで、そうして縫いとめるようにもう一度首筋に手を伸ばす。温かい温もりの宿る場所。ナイフを突き立てれば見慣れた赤が噴き出すところ。押さえつけたところで、抵抗の一つすらしないことはもう知っている。
「いつまで、眠ったふりをしているんです」
「……お前が迷うことを諦めるまでさ」
当然のように返った言葉にしかしグレイは驚かなかった。青白い瞼がゆっくりと持ちあがって、その下に隠されていた鈍色の瞳が真っ直ぐにグレイを見上げる。見透かすような視線を受け止めてグレイは口元だけで笑った。おはようございます。グレイがわざとらしく告げればナイトメアは、大儀そうにおはようとだけ返した。まるでどこかの帽子屋のようだとグレイが指摘するよりも先に、ナイトメア自身が気づいて自分でそれを口にした。寝台に縫いとめられたまま、彼は可笑しそうに笑って目を細めた。
「私を殺すことはこの上なく簡単なことだ、グレイ」
悪事を唆すようにナイトメアは密やかにグレイに囁く。知っているだろうと、蜜事を流し込むようにナイトメアはグレイに告げる。
「……存じておりますよ、ナイトメア様」
どうせならば最期まで安らかに。眠ったふりを続けていればよかったのだ。わざとらしく息を吹き返した男は、既に死人のように青白い顔で生きていた。そうしてグレイの中で揺らめく思考を慈しむように、哂う。
握りしめた手首は跡になるだろう。指先がうっ血し始めていた。